ふだん、必要に迫られて自己流の英語のネットサーフィンをしていますが、文法などは意識せずに適当に読んでいるので特に不自由は感じません。

ところが子供に勉強を教えることになりました。数学、理科、歴史、地理とスムースに教えてきましたが、英語は教え方をまず考えないと教えられないと感じました。

中学レベルなので表面的にサラッと教えることはできますが、それでは楽しくないですね。

 

日本人が英語はにがてだと感じる理由はいろいろ説明されています。

 音声知覚の違い

 周波数の違い

 使わないから忘れてしまう

 シャイな民族性

 英語の発想がよくわからない 

 

さらに時間空間を把握するアプローチが基本的に違うのではないか―

 

時間、空間の認識がわれわれからみると病的と思えるほど細かい。時制で言えば、たとえば日本語の「シテイル」です。英語では現在進行形と現在完了進行形に分けて認識し、表現します。

We are studying science.   と We have been studying science.

わたしは正直、どっちでもいいように思ってしまいます。

 

空間についても at, in, over, onなど前置詞だけでも細かい使い分けをします。

そうかと思うとhavetakeasなど何でもありのような軽いおおざっぱな使い方をする単語もあります。すごく細かいけれど、一面ではとても無神経な人がいるとしたら、

あまり付き合いたくはないでしょう。適当に付き合うにはとてもいい友達ですけどね。

 

一方、このような時間空間認識の厳密さが科学の研究、さらには50年、100年先まで周到に計算された政治、経済政策を生む原動力になっているのかもしれません。アングロサクソンの発想はダイナミックで面白いです。

 

言葉を使って数学や理科という(ソフト)を教える、というのと言葉そのもの(CPU)を教えるということの違いに気付いてから教え方を立案し、フレッシュに教えることができるようになりました。

 

グローバル化が進むとやがて世界共通の人生観、世界観、コスモロジーをもたないとやっていけない時代が来るでしょう。そのとき心のかきねは低くなり、英語のかきねも低く感じる時代がくるのではないか、と考えています。